一般社団法人
日本ベリーダンス連盟

コラム
2025.10.13

踊る前に知っておきたい!
歌手「ウンム・クルスーム」について~後編~

及川景子

https://www.facebook.com/kyoko.oikawa.9/about/

 

今年で没後50年を迎えた、近代アラブ音楽の黄金時代を代表する歌手「ウンム・クルスーム」。後編は、ベリーダンスでその楽曲を踊る上で意識しておきたいことについて。ウンム・クルスームの歌に出会って20年以上、ベリーダンサーとの共演多数…クルスームの楽曲の解説レクチャーも数多く手掛けるアラブヴァイオリニストの及川景子(オイカワキョウコ)さんに、さまざまな角度からのご意見やアドバイスをいただきました!

 

●大事なのは、表現者としての<矜持>

―ウンム・クルスームは、近代アラブ音楽の黄金時代を象徴する稀代の<大スター>。没後50年たった今もなお、その歌声は流行を超えてアラブの人々から愛され尊敬されている存在です。

 

 

 

―はじめてウンム・クルスームの楽曲を踊ったベリーダンサーはスヘイラ・ザキでした。

 

彼女が最初に選んだのは『Enta Omry』。映像に残る彼女が踊っているのは、曲の中の器楽演奏部分のみで歌の部分は含まれていませんが、その後、スヘイラ・ザキの後に続くダンサーたちは、すぐに歌の部分も踊るようになっていきました。

 

 

 

―今でもウンム・クルスームの曲、
特に歌のパートを
ベリーダンサーが「踊るべきか否か」について、様々な議論があることは事実です。

 

否定的な意見の背景には、
やはり社会的要因として、<至高の存在>であるウンム・クルスームとその歌曲と、とくにイスラム圏におけるベリーダンスの位置付けとの間に大きなギャップがあることが大きいように思います。

 

またそうした要因と関連して、
ベリーダンスという<表現>自体にどの程度の可能性を見出すかによっても、大きく意見が分かれるところかと思います。

 

―思うに、ベリーダンスは、踊りの中でも非常に<表現>の幅や自由度が高い踊り。たとえば禁忌と伝統、聖と俗、洗練と土着、エンターテイメントと芸術性…そうした大いなる矛盾を同時に内包する、いわば人間そのものの表現としての<生々しさ>のある踊りだと感じています。

 

そこにはその人のセンスと品格、情熱と愛、その人がどれだけ向かい合ったのかが「ありのまま」に映し出されます。そして観衆は、その全てを感じて受け止めるのです。

 

その曲を愛していれば、より深く考え、知ろうとするでしょう。

 

より深く知ることで、より一層深く感じることができるでしょう。

 

そして自ずとその作品や作品をつくった人々、作品を歌った人や奏者への敬愛が深まることでしょう。

 

スヘイラ・ザキが「クルスームの音楽で踊る」という<暗黙のタブー>を飛び越えた背景には、彼女が音楽的に大変優れた耳を持っていたことや、優れた人格、品位を失わないあり方を貫いた姿勢、そして「どうしてもこの音楽で踊りたい」という情熱がありました。そこから放たれた表現は、どんな境界も飛び越えて、深く人の心に届いたに違いありません。

 

―また、中東から遠く離れたこの<日本>だからこそ許される、既存の固定観念に縛られない独自の表現もまたあり得ると私は感じます。

 

そんな自由なフィールドのなかで
何を選び、
どう表現するか。

 

これについては、
さまざまな議論と限りない可能性の両方を見据えながらも、<自分なりの表現>を選びとっていくことが唯一の「答え」なのではないでしょうか。

 

 

●自身の判断軸として…アレンジを踊る前に原曲に触れる<意義>

―楽曲のリテラシーという点でもう一点。
私たちの時代には、幸運にも<録音>という形でオリジナル作品が残されているのですから、ウンム・クルスームの楽曲を踊る際はやはりまず<原曲>を聴いてみることをおすすめします。 

 

…ベリーダンスショーの現場では、
時に薄っぺらい編成で適当に録音されたベリーダンスのためのアレンジ音源を耳にすることがあります。

 

シャービーな曲であれば、それも一種の<味>にもなり得るかもしれません。けれども、世にたくさんの音楽が溢れる中で、
「クルスームの楽曲をなぜこんな風にアレンジしたのだろう?」「クルスームの曲を選んだのなら、なぜこの音源で踊ろうと思ったんだろう?」と考え込んでしまうことも多く、残念ながら、納得のいく解答が見つからない場合がほとんどです。

 

そんな現状があるのもまた、
ベリーダンスでクルスームの歌や楽曲を「踊るべきではない」という意見が聞かれる要因の一つ。

 

もちろん、この問題は安易な音源を世に送り出すミュージシャンサイドこそ責任を問われるべきもの。一方で、そうした音源に抵抗を感じることもなく「手を伸ばしてしまう」ダンサー側の感覚もまた、その傾向を助長してしまっているのも確かです。

 

「あえて」と「無知」は別のもの。
自分が踊る音源のアレンジの方向性やクオリティを判断する上でも、オリジナル作品に触れておくことは大事だと思います。

 

●難しいのは当たり前! <文化遺産>として遺されるべきその歌声

―そして彼女が歌う曲を聴いて、
「難しい」
「いまいち良さが分からない」
と感じたとしても、それはある意味当然のことかもしれません。

 

第一に言葉の問題、
そして異文化の音楽であることや古い録音に耳なじみがないetc.考えられる理由は多々ありますが、もう一点、日本の独特な<音環境>が関連している可能性があると私は考えています。 

 

前編では彼女の<声>の素晴らしさについてお伝えしましたが、アラブの人々がクルスームの歌声を聴く時、それは千年の年月を超えて彼らが脈々と磨き上げてきた「古典芸術」であり、今なお日常に息づく「生きた伝承」の音ともいえるもの。

 

それに対して、学校では西洋の音楽教育を受け、日本古来の伝統の音は日常からは遠いところにある私達の耳が、クルスームの歌はじめとするアラブの音楽の<本質>を感じとるまでに、ある程度「時間がかかる」のは仕方のないこと。クルアーンの響きのような、時を超えて日々に息づく<音文化>を持たない私たちの感性には「眠ったまま」になっている部分があるのではないでしょうか。

 

 

―ただ、今ピンとこないからといって、クルスームの楽曲を現代の多くの音楽と同等に<消耗品>感覚ですぐ手放して次から次へと聴きあさるのは、ちょっともったいない!

 

いろいろなアラブの音楽を聴く中で耳がじょじょに拓かれていくこともあるし、自分の人生の歩みとともに<感じ方>も変わる可能性もあります。何かのタイミング等で、もしかしたら思ってもみなかった「素晴らしい世界」が開けるかもしれない、そんな大きな<ポテンシャル>を秘めた音楽なのだと捉えて、長い時間の中で付き合ってみることをおすすめします。

 

―加えて彼女の歌に
何かしら響くものを感じたら、
データでもCDでも何でもいいので<購入>というアクションをぜひ起こしてほしい! 

 

現代の風潮の例に漏れず、アラブでも今や音楽を「買う」という感覚は薄れ、ネットサーフィンで無料で聞くことができるもの、というのが一般的になりつつあります。そんな中で、もしクルスームの音楽がいいなと思っても、それが何らかの形で市場に反映されなければ、目に見える形ですぐにお金に繋がる音楽ばかりが優先的に取り扱われていくでしょう。

 

消え去るのは一瞬。
一度失われてしまったら、それを取り戻すことはもう叶わないでしょうし、クルスームの音楽のように、時間もお金も湯水のように投入されたものが作られるような世界が、この先すぐにまたやってくる保障はありません。

 

そんな取返しがつかないことになる前に…
世界に彼女の音楽を愛している人がこんなにたくさんいるということを伝え、アラブの人々に改めて、彼らがどれほど素晴らしい<遺産>をその手に持っているのかを実感してもらうには、私たちがそこに何らかのお金を投入することが、明確にしてもっとも有効な手段ではないでしょうか。

 

●「言葉通りに弾け」師匠の言葉を胸に…知るほど実感する<深さ>と<豊かさ>

―私自身の経験に話を戻しますね。

 

ウンム・クルスームが歌う「Enta Omry」をはじめて聞いた時、本格的にアラブ音楽に身を投じると決めてから20年以上が経ちました。今も同じ一曲を聴くたびに、演奏するたびに新しい発見があるし、アラブ音楽と過ごした時間が自分の中に積み重なるほどに、より奥へと扉が開いていくような感覚があります。

 

演奏技術はもちろん、遅々たる歩みながらアラビア語も学び続けていますが、これは<詩>ありきで作られたアラブ音楽を理解するには、言葉の意味は当然のこと、リズムや響き、ニュアンスの広がり…そうした<言葉そのもの>が分からないことには「演奏できないな」と感じたからです。

 

アラブヴァイオリンの師匠の一人、
サード・ムハンマド・ハサン師(写真/2018年逝去)に最初に教えを受けた時、
「歌曲を演奏する時は、その言葉通りに弾きなさい」
と教わりました。

 

その言葉を胸に、何度もクルスームの歌を聴いては弾きながら、年々言葉の学習が進むにつれて、旋律の歌い方や歌の意味が深まり、私自身の感じ方もどんどん変化し続けていることを実感しています。

 

こうしてアラブの音の世界を時間をかけて歩き続けることは、果てしなく、そして限りなく豊かな旅であり、クルスームの歌は、その中でもとびきりの体験をもたらしてくれる、自分にとっては<宝島>のような存在となっています。

 

 

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